虚人の論考 #07
それでも人は、同じ人であり続けられるか
——テセウスの船、その先へ
前作から続く問い
前章では、人類の技術史に二つの系統を見た。環境そのものを変える「環境改造」。道具を介して人間と環境を結び直す「環境適応」。そしてもう一つ、そのどちらにも収まらない第三の方向が見えてきた。
環境ではなく、人間の内側そのものを変更の対象とする技術である。
視力を、運動機能を、意思を伝える経路を、技術は人間の内側から組み直し始めている。そして前章は、次の問いを残して終わった。
だが、この問いをそのまま追いかけようとすると、すぐに別の問いにぶつかる。「どこまで」変更できるかを考える前に、そもそも人は、変更を重ねてもなお同じ人でありつづけられるのか。変更の量と、同一性の行方は、どこかで交わるはずである。
今回は、この問いを引き継ぐ。
どこまで変更しても、同じ人でありつづけるのか。
テセウスの船を人間へ持ち込む
この種の問いには、すでに古い思考装置がある。テセウスの船である。
船を構成する部品を、一つずつ交換していく。板を替え、帆を替え、やがて舵まで替える。そうして最後には、最初の部品が一枚も残っていない船ができあがる。
それは、もとの船と同じ船なのだろうか。
この思考実験には、一つの答えが定まっているわけではない。ここで借りたいのは、答えではなく、問いの形だけである。
船を人間に置き換えてみる。
人間の身体も、内面も、時間とともに変化していく。テセウスの船と同じように、部品——身体や内面の構成要素——を少しずつ入れ替えていった先に、「その人」はまだそこにいるのだろうか。
もちろん、船の同一性と、人間の同一性は、同じ問題ではない。テセウスの船がそのまま人間の答えになるわけではない。
借りるのは、あくまで問いの輪郭だけである。
では、船ではなく人間だったら、この問いはどこまで通用するのか。
身体が変わっても
まず、わかりやすいところから始めたい。身体の変化である。
人は成長し、老い、怪我をし、治療を受ける。身体の一部を、人工の部品に置き換えることもある。歯を、関節を、レンズを。時には心臓でさえも。
けれども、身体がどれだけ入れ替わっても、私たちは普通、その人が「別人になった」とは考えない。身体は成長や代謝によって大きく変化してきたはずなのに、そこに断絶は感じない。
つまり、身体が大きく変化したことだけでは、同じ人でなくなったとは言えない。
これは、そう驚くことではないだろう。問題は、この先にある。
変化するのが内面だったら
身体ではなく、内面が変わるとしたらどうだろうか。感情の動き方、価値観、ものごとへの向き合い方。
一つずつ、確かめながら進んでみたい。
まず、一つ目のケース。ある人が、実際につらい経験をくぐり抜け、ものの見方を変えたとする。痛みや葛藤を経て、以前とは違う価値観にたどり着く。
それでも、同じ人だろうか。
では、次のケースはどうだろうか。
現実には経験していない。けれども、本人にとって本物の経験と見分けがつかないほど精巧に作られた疑似体験によって、先ほどと同じ価値観にたどり着いたとする。
それでも、同じ人だろうか。
では、最後のケース。
経験も疑似体験も経ないまま、「納得した後の心の状態」だけが、外から直接作り出されたとする。何かに触れ、それを受け止めるという手順を、そもそも経ていない。それでも、たどり着いた価値観は、先の二つとまったく同じだとする。
それでも、同じ人だろうか。
三つのケースを振り返ってみる。最終的にたどり着いた価値観は、いずれも同じである。変化の大きさも、大きく異なるとは言えない。それでも、「同じ人か」という判断は、ケースが進むごとに揺れていった。
では、何がこの違いを生んだのだろう。
同じ結果なのに、なぜ違うのか
ケース1では、同じ人だと思えた。
ケース2でも、まだ同じ人だと思えた。
けれどもケース3になると、その判断に躊躇が生まれた。
なぜなのか。
もしかしたら、本人が、実体験・疑似体験を問わず、経験や知識を受け止める過程そのものが重要なのではないか。
だが、それだけで説明できるだろうか。教育を考えてみたい。
別の考え方に触れ、比較し、時には反発し、受け入れ直す余地が残されているような教育を考える。子どもは、家庭や与えられた学習環境の中で、多くの経験や知識、価値観を受け取る。その変化を、通常は成長として捉える。
一方で、隔離などによって情報を意図的に遮断し、比較する材料そのものを与えないまま、特定の経験や知識、価値観だけを刷り込むような環境があったとする。結果として前者と同じ価値観にたどり着いたとしても、前者と同じような変化として扱うことには違和感がある。
どちらも、外部から情報や環境を与えられ、その結果として価値観が形づくられている点では同じである。それでも、この二つを同じものとして扱う気には、どうしてもなれない。
何が違うのか。
ここで、一つの区別が見えてくる。
教育を受けた子どもは、成長する過程で、別の考え方に触れ、比較し、時には反発し、受け入れ直す機会を持っている。実際に疑ったかどうかは関係ない。疑おうと思えば、疑うための材料が、そこにあった。
一方、情報を遮断された環境では、比較する材料そのものが最初から与えられていない。疑わなかったのではなく、疑いようがなかった。
本人が受け止めたかどうかだけでは、まだ足りない。そこに、疑い、比較し、拒み、受け入れ直す余地があったかどうか。この新しい軸が、先ほどケース3で覚えた躊躇の正体に近いのかもしれない。
問題は、「何が変わったか」でも「どれほど変わったか」でもなかったのかもしれない。
応答可能性
ここまで見てきた「変化に関わり直せる余地」に、名前を与えたい。本稿では、これを応答可能性と呼ぶことにする。
外部から与えられた情報・経験・価値観や、自分自身に生じた変化に対して、本人が疑い、拒み、比較し、受け入れ、再解釈する余地が残されていること。重要なのは、実際に疑ったかどうかではなく、疑う余地が残されていたかどうかである。
ここには、いくつか注意しておきたい点がある。
一つは、実際に疑ったかどうかは問題にしていないということである。ある変化を受け入れたまま、疑うことなく生きていく人は、当然いる。それ自体は問題ではない。問題になるのは、疑おうとしたときに、疑うための足場がそもそも存在しない状態である。
もう一つは、この「応答可能性」を、そのまま「主体性」と呼ぶわけではないということである。人が主体的にあり続けるために必要な条件は、他にもいくつも考えられる。応答可能性は、そのうちの重要な一つの条件ではないか、という位置に置いておきたい。
そしてもう一つ、これは誤解されやすい点だが、ここでいう応答可能性は、自分の意思を外の世界へ伝えられるかどうかや、他人とうまくコミュニケーションが取れるかどうかの話ではない。中心にあるのは、あくまで、自分自身に生じた変化に対して、本人がどう関わり直せるかという一点である。
この補助線を手に入れたところで、もう一度、冒頭の問いに戻りたい。
人間を変えること自体が問題なのか
どこまで変更しても、同じ人でありつづけるのか。
この問いを追いかけてきたはずだった。しかし、テセウスの船から始まった思考実験をたどっていくと、そもそもこの問いの立て方自体が、少しずれていたのかもしれないと思えてくる。
身体がどれほど変わったかだけでは、答えは出なかった。内面がどう変わったかについても、「何が変わったか」だけを見ている限り、三つのケースを一つずつたどるあいだに生じた違和感を説明できなかった。
ここで、はっきりさせておきたいことがある。
人間を技術によって変えること自体は、さして問題があるとは考えていない。
問題になるとすれば、それは変化そのものではない。
変更後にも、関わり直せるか
技術が今後さらに人間そのものへ介入していくのだとしたら、「どこまで変えたか」という量の問題だけでは、その介入を見きわめることはできない。
そこで、こう問い直してみたい。
疑うことができる。拒むことができる。比較することができる。受け入れることもできる。そして、受け入れたあとでも、もう一度考え直すことができる。
重要なのは、実際にどの反応を選ぶかではない。その変化に対して、本人が応答できる余地そのものが、確保されているかどうかである。
人間への技術介入を、「何を、どこまで変えたか」という変更そのものから見るのではなく、「変わったあと、その人自身がその変化にどう関われるのか」という方向から見る。これが、今回の思考実験を通して手にした見方である。
ただし、ここで一つ、留保を置いておかなければならない。
応答可能性さえ確保されていれば、あらゆる介入が許されるわけではない。危害を及ぼす介入、強制によって受けさせられる介入、十分な同意のないまま進められる介入。こうした問題は、応答可能性とは別の場所に、依然として残っている。
応答可能性は、唯一の境界ではない。人間への技術介入を考えるための、いくつもある補助線のうちの一本として、ここに置いておきたい。
結び
冒頭で、こう問うた。
どこまで変更しても、同じ人でありつづけるのか。
テセウスの船を借り、身体の変化、内面の変化をたどって見えてきたのは、問題は「何が変わったか」「どれほど変わったか」という変更そのものではないのかもしれない、ということだった。
代わりに見えてきたのは、変わったあと、その人自身がその変化とどう関わり直せるか、という問いだった。
疑わなかったことと、疑えなかったこと。この二つのあいだにある違いを、本稿では応答可能性と呼んだ。
人間への技術介入を眺めるときに、そっと添えておける一本の補助線である。
